芸能人の薬物や不倫など今年よく見られたニュースでしたが、俳優の成宮寛貴の薬物疑惑の報道には首を傾げたくなる。
フライデー側は裏付けや信憑性にかなりの自信があった上で報道に踏み切ったとは思うが、情報提供者とされる成宮の友人を果たしてそこまで信じて良いのだろうか。
成宮自身、引退表明の中で「裏切られた」「罠にハメられたと」言ってますが、仮に一連の元となっている情報がその友人が演出したイタズラで、薬物使用の事実は本当に無かったとしたら、フライデー側には相応の社会的制裁が下されなければなりません。
今回の件では、報道の中心であった薬物使用疑惑以外の部分で、事件とは全く無関係なプライバシーに関わる報道も同時にされていて、それも芸能界引退に繋がったとされています。
そもそもフライデーを含む写真週刊誌やマスコミには、一個人のプライベートを大衆に公表する権利はあるのでしょうか。
あるとするなら、報道されない自由や権利は無いのでしょうか。
Wikipediaを見ると報道の自由とは、「事実を告げ知らせる行為の自由」とされています。
これは表現の自由や言論の自由とも結び付いてきますが、国民の知る権利に繋がります。
民主主義国家ですから、何かしらの上からの圧力によって情報を隠蔽されたり情報操作されず、事実を知る権利というものが日本国民にはありますが、本来は政治や警察などの社会の上の階層に位置するものへ対する権利です。
これを拡大解釈してるのがマスコミや写真週刊誌と言えます。
テレビや週刊誌などの全国民向けの媒体で公表すると言うことは、端から全国民を対象として報道してる訳ですが、どこどこの誰々さんの性癖を知りたいとどれほどの国民が願ってますか?
本人では無いそれを知っている赤の他人が、それはこうですよと全国民に知らせるのは当然の権利ですか?
一方的に知らされるのは何の権利ですか?
知りたくない権利は無いのですか?
度々、報道・言論・表現の自由と、プライバシーなどの個人の権利が天秤にかけられますが、先にも述べた政治や警察などの組織相手では無く、相手が一個人だった場合にはプライバシーの方が優先されるべきではないでしょうか。
事件や事故であれば事実や真相を知る権利は、隠蔽され真実が葬られる前に行使されて然るべきですが、それらと違う、国民の利益とも全く関係のない個人のプライバシーを勝手に公表することが優先されるのは間違いであり、これは報道の自由とは関係のない問題だと思います。
しかも、報道が事実無根だった場合の責任処理も疑問です。
報道された側は、事実無根であっても結果として社会的な制裁を受けてしまいますし、一度向けられた疑惑を無実の人が晴らすと言うのは不可能だとされています。
仕事や信頼を無くし社会からも抹殺されかねない状況にさせておいて、報道した側は誤って済むレベルでは無いだろうと考えるのは当然ですし、子供でもわかることです。ゴメンで済むなら警察はいらないわけです。
プライバシーを守る権利は、私生活上の事柄をみだりに公開されないという法的に認められた権利ですが、いつから報道の自由が上回ってしまったのでしょうか。個人の権利は無くなったのでしょうか。
こうした報道で常に思うのが、報道する時はそれこそ鬼の首を取ったかのように大々的に報道するのに、情報が違っていた時の謝罪は報道なる事もなく、紙面の一部に謝罪文や訂正文が小さく掲載されるだけ、なんて事がしばしばあります。
「事実とは違っていた」という事実
この事実も大々的に公表すべきでは無いのですか?
それこそが国民の事実を知る権利じゃないのでしょうか。
前述のように、個人のプライバシーを他人が勝手に広めて良いのならマスコミや記者の個人的なプライバシーをネットで世界発信しても問題無いということです。
というか、フライデーの担当記者やOK出した編集長のプライバシーは【同じように】暴露しても文句は無いはずですよね?当然。あったらおかしいですよね。矛盾ですよね。
記者や編集者も世代交代でどんどん若い世代が増えてると思いますし、その弊害が増えてるのだと思いますが、根本的な本当の根っこにあるべきはずのモラルを見失わないよう、これから先も切に願います。